聖書の中でも旧約聖書の「詩篇」は祈りに使われる聖句であり、とても力強いものです。
「神様との関係性をもっと深くしたい」と思ったとき、この動画が参考になりました。
旧約聖書で神様が人間にくださった約束は、新約聖書に登場するイエスキリストの死と復活により、全ての人に与えられるもとなっています。一人でも多くの方にこの約束が届きますように。
聖書アプリに関しては、日本語で読めるYouVersion Bible Appがあります(他にもいいアプリがあるかもしれないです)。音声でも聞けてスマホ作業中もバックグラウンドで動いてくれるので、ずっと聞けます。気になった箇所は付箋がつけられますし便利です。
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(以下は、冒頭のみ翻訳したものです)
私たちは皆さんにお会いできて本当に嬉しいです。
では早速、神様から与えられた小さなチャレンジをお話しします。
あるとき、私があることについて本気で悩んでいたときに、神様が一つの聖書箇所を示してくださいました。
それは第一ペテロの1章3節から5節です。
私はいつも《新アメリカ標準訳聖書》を使っているのですが、そこにはこう書かれています――
神の守りは「終わりの時」に完全に現される、と。
聖書は、十字架以降、私たちはすでに「終わりの時代」に入っていると教えています。
それで私は主にこう尋ねました。
「主よ、あなたの言葉では、終わりの時にはこの世に様々な出来事が起こるとあります。
けれども、現実の世界を見渡すと、ますます悪くなっているように見えます」と。
どう見ても、ここで約束されている『勝利』や『守りの契約』のようには見えません。
私は少し混乱して、神様に問い続けました。
すると、数年前、主が私に一つの言葉を語られました――「レムナント(残された者)」という言葉です。
主はこう言われました。
「私はいつも“レムナント”と共に働く。なぜなら、約束をつかみ、それを自分の人生に実際に働かせる者は、残された者だけだからだ」と。
「これらの約束はすべての人に開かれているが、実際にそれを受け取り、働かせるのはごく少数の者だけだ。
しかし、その少数の者たちは、確かに約束の成就を目にするだろう」と主は言われました。
だから私はこの教えを分かち合うことが大好きなんです。
もっと多くの人がこの“レムナント”の一部になってほしいからです。
この守りの契約を、神様は夢の中で私に示してくださいました。
そして後に、それを本の形にまとめるよう導かれました。
それはちょうど9.11の直前のことでした。
私はなぜか強い「今すぐ形にしなければ」という緊迫感を感じました。
するとまもなく、あの9.11の出来事が起きたのです。
そのとき私は「なるほど、この緊急性の意味がわかってきた」と感じました。
それ以来、私たちはこの『詩篇91篇の契約(Psalm 91 Covenant)』に関する書籍を、何千冊も世界中に送りました。
宣教師たちへ、刑務所へ、そして特に軍の人々へ――本当にあらゆる場所へ送りました。
先日の旅行でも、ある若い軍人と出会ったのですが、彼は帰国の途に就くところでした。
私たちは彼と写真を撮ったんです。
彼は興奮してこう言いました――「妻も僕も、詩篇91篇の守りを知っています」と。
それを聞いてとても嬉しかったです。
私は国内外のクリスチャンから、本当に数えきれないほどの奇跡の証を聞いてきました。
彼らはこの約束をしっかりと握りしめ、その結果、神の驚くべき守りを体験しているのです。
手紙や電話で、多くの感謝と証をもらっています。
「神様がこんなことをしてくださった」と。
そのすべてが本当に素晴らしいものです。
でも、それでも私は主に向かって泣きながら訴えました。
「主よ、ほとんどのクリスチャンは、この守りの契約のことを聞いたこともないか、あるいは知っていても心から受け取っていません」と。
神の言葉はこう教えています――
すべての人がこの約束を掴むわけではない、と。
ノアの時代のように、それを受け取ったのは一人とその家族だけでした。
ギデオンの軍も同じです。最初は何千人もいましたが、帰っていった者がほとんどで、残ったのはわずか300人。
その300人だけが、勝利の恵みを実際に体験しました。
同じように、今の時代も「レムナント」、つまりごく少数の者が神の勝利を経験するのです。
けれども、神の約束そのものは――それを受け取ろうとする全ての人に――常に開かれています。
誰でも受け取ることができるのです。
手を伸ばして、信仰をもって受け取ればいい。
これから先、私たちは非常に厳しい出来事を目にするかもしれません。
しかし、神はすでに「守りの契約」を用意しておられます。
そしてその約束を、まるでブルドッグのように決して手放さずに掴む“レムナント”が、
この守りを現実のものとして体験していくのです。
私はいつも人々にこう言っています。
「この神の約束をしっかりつかんで、絶対に離さないでください」と。
主は言われました――そのように約束を握りしめる人こそが、実際にその成就を見るのだと。
神様は、働かない約束を聖書に書かれたわけではありません。
だからこそ、それが本当にワクワクすることなんです。
聖書の中にある一つ一つの約束は、
「もしそうなったらいいね」と空想するために書かれたものではありません。
神様がそれらの約束を記してくださったのは、
私たちがそれを掴み取り、行動に移し、実際に働かせるためなのです。
神の言葉にあるすべての約束は、私たちが受け取り、楽しみ、実際に用いて、
神が備えてくださった奇跡を見るために存在しています。
ルカの福音書24章44節には、
「詩篇に書かれたすべてのことは成就しなければならない」とあります。
だから私は思いました――「詩篇91篇」も詩篇の一部です。
主は私にこう教えてくださいました。
「この言葉を信じ、実践する者は、誰でもこの約束を自分のものにできる」と。
これは神様が私たちに与えてくださった奇跡の約束です。
多くのクリスチャンが神を愛し、忠実に仕えていますが、
中にはこの契約(詩篇91篇の守り)をまだ聞いたことのない人もいます。
けれども、神はこの契約をあなたにも差し出しておられるのです。
“レムナント(残された者)”の一人として、それを実際に体験するようにと。
ですから、詩篇91篇のことを聞いたあなたは、
まさにその“レムナント”の一部だということを知ってください。
今夜、まだこのことを知らなかった方への挑戦として言います。
今この瞬間にその約束を掴み取り、この勝利の中を歩み始めてください。
この真理はいま、世界中に広がり始めています。
この契約は、神からの守りです。
あなたがどこにいようと、家にいても、外国にいても、
たとえ危険な場所にいても、あるいは自宅のリビングに座っていても――
この約束は有効です。
もしあなたが神の御心の中にとどまり、
この約束を決して手放さなければ、奇跡が起こります。
実際、私たちは毎日のように手紙を受け取ります。
詩篇91篇の約束によって起きた奇跡の証が、世界中から届いているのです。
救いの体験――つまり天国への切符に次いで、
このメッセージは、あなたの人生で最も重要なメッセージの一つになるでしょう。
それを実践し、あなた自身だけでなく、
あなたの子ども、そして孫までも覆うものになるからです。
もしあなたが信じ、歩むなら――
これは本当に神様からの美しい贈り物です。
けれども、それは自動的に働くわけではありません。
今お話ししている「詩篇91篇の守りの約束」は、
神の子どもなら誰でも信仰によって受け取ることができるものです。
ただし、まずはその約束を知ることが必要です。
聞き、理解し、そして実際にそれを歩み始めなければ、働くことはありません。
――今からおよそ50年前、私はあらゆる恐れに悩まされていました。
家族の誰かが病気になるのではないかという恐怖、
子どもに何か悪いことが起きるのではないかという恐れ。
ある日曜日の朝、私は悲しい知らせを受けた後、バプテスト教会にいました。
私たちが愛していた執事の一人が、白血病と診断されたのです。
医師たちは「余命2か月」と告げていました。
家に帰って祈りながら、私はこう尋ねました。
「主よ、地上で起こるあらゆる災いや病から、守られる道はあるのですか?
それともただ“なるようになる”と諦めて生きるしかないのですか?」
私は本気で、「もしかしたら“ケ・セラ・セラ(なるようになるさ)”の心で
受け入れるのが正しいのかもしれない」と考え始めていました。
ベッドに横になって祈りながら、そのまま眠りに落ちました。
ほんの5分ほどの短い眠りだったのですが、その間に非常に不思議な夢を見ました。
それは間違いなく超自然的な夢でした。
夢の中で、私は広い野原に立っていました。
そして、夢の中でも同じ質問をしていたのです。
「主よ、地上に起こるすべての災いから守られる道はありますか?
それとも、起きるままを受け入れて気にしないようにすればいいのでしょうか?」
そのとき、夢の中ではっきりとした声が聞こえました。
「苦難の日には、わたしに呼び求めよ。そうすれば、わたしは答える。」
私はその言葉が聖書の中のものかどうか、その時点では全く知りませんでした。
でも、その言葉を聞いた瞬間――
私の内なる存在の奥深くから、言葉にできないほどの喜びがあふれ出てきたのです。
そして驚いたことに、夢の中で、私は最初は一人で神と話していたのですが――
夢の中で、私はもう一度あたりを見渡しました。
すると、広い野原に人々がどんどん集まってきたのです。
前を見ても、左右を見ても、後ろを見ても――どこまでも人、人、人。
次々と人々が加えられていきました。
そして、そこにいた全員が神を賛美し、感謝し、拍手し、跳びはねて、
この「約束」を神に感謝していたのです。
夢から目が覚めたとき、私は確信していました。
「答えをもらった」と。
まるで平安が全身に流れ込んでくるようでした。
私はその夢が普通の夢ではなく、超自然的な夢であることを悟っていました。
けれども、まだ具体的に“何の答えなのか”は分かっていませんでした。
それでも、あまりに嬉しくて、その日は地に足がつかないほどの興奮でした。
「神がこんなにも超自然的に私に語ってくださった!」――
その喜びでいっぱいだったのです。
ところが翌日、あるカセットテープを聞いていたとき、
「詩篇91篇(Psalm 91)」という言葉が耳に入りました。
それはシャーリー・ブーン(Shirley Boone)という人のメッセージでした。
今の若い方の中にはご存じない方も多いでしょうが、
少し年配の方なら、彼女をご存じかもしれません。
そのシャーリー・ブーンが「詩篇91篇」と口にしたのです。
そしてすぐに「いえ、違うわ、それは私が探していた詩篇じゃないの」と言って、
話を続けていきました。
けれども――私がその「詩篇91篇」という言葉を聞いた瞬間、
まるで内側で爆発が起きたような衝撃を感じたのです。
私は思わず立ち上がりました。
「これだ!」――私は心の底から分かったのです。
これこそが神様が私にくださった答えだと。
ただ、当時の私はまだ聖書をほとんど知らなかったんです。
それは今からもう50年も前のこと。
けれども、もしそこに“部屋の隅で逆立ちをしなさい”と書いてあったとしても、
私はその通りにしたでしょう。
「絶対にこれが働く」と信じていました。
それほど、心の奥で何かが爆発していたんです。
私は急いで聖書を開き、
夢中でページをめくって詩篇91篇を探しました。
そしてそこに――なんと夢の中で神が語ってくださったその言葉が、
はっきりと書かれていたのです。
「彼が苦難の日にわたしに呼び求めるとき、
わたしはこれに答える」(詩篇91篇15節)
信じられませんでした。
目の前にあるその言葉に、私はただ圧倒されました。
幸い、そのとき私は家に一人だったので、
思い切り飛び跳ね、拍手し、泣きながら神を賛美しました。
その瞬間、神がどんなに奇跡的な導きをしてくださったのかを悟りました。
私が詩篇91篇に出会うまでの一連の出来事――
すべてが神の計画の中にあり、完全な奇跡だったのです。
そしてその後、何日も何日も私はその喜びの中に浸っていました。
この詩篇91篇――これは本当に命を救う詩篇です。
今でも、世界中から証が寄せられています。
この約束を実践した人たちが、自分の体験した奇跡を伝えてくれるのです。
「神がどんなふうに助けてくださったか」「信じられないことが起きた」――
そういった証が、ほぼ毎日のように届いています。
だからこそ、このメッセージはとても重要なのです。
そして私はこの教えを語ることが本当に大好きです。
人々がこの約束を掴み、それが“本当に働く”と気づく瞬間を見るのがたまらなく嬉しいのです。
この言葉はあなたの人生にも実際に働かせることができます。
もし聖書をお持ちの方は、ぜひ今から一緒に開いてみてください。
これから私たちはこの詩篇を最初から順に読み進めていきます。
なぜなら、これは神ご自身があなたに与えてくださった贈り物だからです。
さて、私はいつも《新アメリカ標準訳聖書》を使っています。
第1節にはこう書かれています。
「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。」
皆さん、こんな経験をしたことはありませんか?
家の中で暖炉に火をくべていて、外では嵐が吹き荒れている。
でも自分は家の中で、あたたかくて、乾いていて、
外で稲妻が走っているのを見ながら、
心の底から「守られている」という安心感を覚える――。
どんなに外で嵐が暴れても、
自分は安全な場所にいて、
手の届かないところに守られていると感じる、
そんな経験です。
これこそが、この詩篇の言わんとしていることなんです。
外の世界では大嵐が吹き荒れていても、
私たちがこの約束を本気で受け取り、
それを生活の中で働かせるなら――
主と共にいるその「安全な場所」に、
私たちは確かに住むことができるのです。
ときに神は、あなたに何かを「するように」と示されることもあるでしょう。
けれども、私たちが従順に歩み、
信頼を持ってこの契約を神との約束として生きるなら、
神は驚くような奇跡を起こしてくださるのです。
実は、神の中には「隠れ場」と呼ばれる場所があります。
それは、神の子どもたちが避難所を求めるための秘密の場所。
でも、その避け所は、ただ「欲しい」と願うだけではだめで、
本気で求めて、「主よ、私はその中に入りたい」と言わなければなりません。
その「隠れ場」は、単なる象徴ではありません。
実際に存在する安全の場所なんです。
そしてこれは「秘密の場所」ですが、同時に条件付きでもあります。
この詩篇91篇の1節と2節には、
「私たちが果たすべき側の約束」が書かれています。
神はご自分の側の約束を語る前に、
まず私たちの側に何が求められているかを教えておられるのです。
なぜなら、私たちの応答が先だからです。
「全能者の陰に宿る」ためには、
私たちがまず「主のうちに住む」と決めなければなりません。
「主よ、私はあなたの中に住みたい」と言わなければならないのです。
――「いと高き方の隠れ場に住む者は…」とある通りに。
私はそのとき、神にこう祈りました。
「主よ、どうすれば“いと高き方の隠れ場”に住むことができるのでしょうか?」
これが超自然的な体験であることは分かっていました。
けれども、それをどう実際に生きればいいのかは分からなかったのです。
だから私は神に尋ね続けました。
「主よ、教えてください。どうすればこれを生きられるのですか?」と。
これは知的な理解を超えたものです。
単なる感情的な高揚でもありません。
もちろん、感情的に神に近づく経験もすばらしいことですが――
この節が語るのは、それ以上のことです。
この「住む」という言葉は、
実際の守りの中に入ることを意味しています。
神のもとに走り込み、物理的にも守られる場所を意味しているのです。
たとえ頭では「神が私の守りです」と信じていたとしても、
実際にその避け所へ走って行かない限り、
私たちは本当の守りを体験することはできません。
この詩篇91篇の守りを「自分のもの」として
実際にそこに住む必要があるのです。
神の避け所に住むとは、
神の言葉を真実の避難所として信じ、
信仰によってそこに走り込み、
そしてその中にとどまることです。
主は私に教えてくださいました――
この「避け所」とは、神との愛の歩みそのものだと。
それは、父なる神との関係の中で、
彼が私たちの最も親しい友となる関係です。
私たちは一人でいるときも、群衆の中にいるときも、
心のどこかでいつも知っています――
「神がここにおられる」と。
どこにいても、彼が私たちを愛し、守り、世話してくださっていると。
私は、車を運転しているときにこの感覚をよく味わいます。
一人で運転しているときでも、
「主が隣におられる」と分かるんです。
だからラジオも消して、ただ主と語り合う。
そんな「愛の歩み」を楽しむ時間が好きです。
中にはこう言う人もいます。
「私はそんなふうに神と親しい関係は持っていません」と。
でも言わせてください。
神が私に詩篇91篇をくださったとき、私もまだそんな関係にはなかったのです。
これは、一晩でできあがるものではありません。
毎日の積み重ねで育っていくものです。
「主よ、どうやってそこに行けばいいのか分かりません。
でも、そこへ行きたいんです。あなたとの“愛の歩み”を持ちたいんです」
そう言って、毎日神に向かって始めるのです。
聖霊を迎え入れて、
「神様、あなたなしでは今日という日を過ごしたくありません」と言ってください。
これは超自然的な領域のことですが、
あなたがそれを求めるなら、神は必ず応えてくださいます。
まるで両腕で抱き上げるように、あなたを取り囲んでくださるのです。
朝に散歩する人もいるでしょう。
私はよく、一人になれる場所を見つけて神と過ごします。
これを毎日やってみてください。
一度その習慣が身についたら、あなたは決して後悔しません。
静かな場所で神と向き合いながら、
詩篇91篇の言葉を感謝の祈りとして神に語り返すのです。
単に朗読するのではなく、心をこめてこう言うのです。
「主よ、私はあなたの御もとに住むことを選びます。
あなたの陰にとどまりたいのです。
あなたの臨在を感じながら歩みたいのです」と。
そして、詩篇を読み進めながら、
それを神とあなたとの個人的な契約(コヴナント)にしてください。
中には、「一度やれば十分」「半年に一度すればいい」と思う人もいるでしょう。
でも、それではだめなんです。
これは毎朝行うべきことです。
毎朝、神との「愛の歩み」を育み、
心の奥深くに、詩篇91篇があなたのものだという確信を育ててください。
それは、この混乱した世の中であなたを守るために
神が個人的に与えてくださった約束なのです。
この世界は、正直言って“めちゃくちゃ”です。
でも、その中にあっても、私たちは守られることができます。
私はいつも健康と守りについて、こんなふうに神に言っています。
「主よ、私は持っている卵を全部、ひとつのカゴに入れます――そのカゴはあなたです」と。
私は**プランB(代替案)**を持っていません。
神こそが、私の守りのすべてだからです。
そしてそれこそが、私たちがたどり着くべきところなのです。
「神が私の守りだ」と、本気で知る地点。
――すべての卵をそのひとつのカゴに入れる信頼。
さて、第2節にはこう書かれています。
「私は主に言おう。『わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神』と。」
1節と2節――これが、私たちの側の契約部分です。
そして注目してほしいのは、《新アメリカ標準訳》で「私は言おう(I will say)」と訳されている点です。
この「言おう」という言葉に丸をつけてください。
なぜなら、私たちはこの信頼を口に出して宣言する必要があるからです。
私がまだ詩篇91篇を与えられる前、
私はいつも「心の中で」祈っていました。
朝起きて、頭の中で祈る――でも、それでは不十分なんです。
それは捨ててください。
「考えるだけ」では足りません。
神は、私たちが口に出して言うことを望んでおられます。
聖書もはっきりと「言え」と言っています。
なぜなのか、完全には説明できませんが、
声に出して言うとき、霊の領域に力が解き放たれるのです。
「主よ、あなたは私の避け所です。
神よ、あなたは私の神です。
私はあなたに全信頼を置きます」――
そう声に出して言い始めると、
内側で何かが変わり始めます。
そして、もっと続けてください。
「主よ、あなたなしでは私はどうしたらいいか分かりません」
「主よ、あなたこそ私の力です」――そう語りかけるのです。
声に出して語れば語るほど、
あなたの中に確信が育ちます。
「神は本当にそこにおられる」
「神は私を守ってくださる」――その信頼が強くなっていくのです。
私たちはよく、「主は私の避け所です」と頭では同意しているだけのことがあります。
私自身、長いあいだそうでした。
誰かに「神はあなたの避け所ですか? あなたの守りですか?」と聞かれたら、
私は「もちろんです」と即答したでしょう。
そして「本気でそう信じている」と思い込んでいたんです。
でも実際には、それだけでは十分ではありませんでした。
多くの場合、私たちは「そう信じているつもり」でいても、
神はそこからもう一歩――より深く御霊の領域へ進むことを願っておられます。
言葉で「主は私の避け所です」と言ったとき、
それが本当に自分の中で“点火”するように燃え上がる瞬間――
そのように、魂の奥でスイッチが入る体験を求めておられるのです。
ちょっと聞かせてください。
あなたはこれまでに、「自分の身を守るために、あらゆる手を打とう」としたことはありませんか?
つまり――
十分な保険に入って、
信頼できるお医者さんを確保して、
もしもの備えを全部整えて……。
まるですべての塁をタッチしようとする野球選手のように、
「自分で完璧にカバーしよう」とした経験。
でも、それは律法を全部守りきろうとするようなものです。
神は、私たちがそんなことを自力ではできないことをよくご存じです。
だからこそ、まず最初に神のもとへ走る必要があるのです。
もちろん、神が医者を用いたり、保険を通して助けを与えることもあります。
それを否定しているわけではありません。
でも、その前に――
「神こそが私の最初の避け所」
そう決めなければならないのです。
神が私たちの守りの主導権を握るとき、
彼はどんな状況にも最善の導き方をしてくださいます。
どんな出来事が起こるか、
私にも、あなたにも予測はできません。
でも――神は知っています。
だから、もし神を自分の「源(ソース)」として見上げるなら、
どんな困難に直面しても、
神は必ずその答えを持っておられるのです。
私たちは信仰によって、
十字架でなされたキリストの御業を基礎として、
その「避け所」に住むことができます。
けれども、そのためには主のそばにとどまり続けることが必要です。
なぜなら、少しでも神から離れると――
自我や自己中心が、静かに心の中に忍び寄ってくるからです。
ほんの少しの反抗心や、自分の思い通りにしたい気持ちでも、
それが「隠れ場」から私たちを遠ざけてしまうのです。
だからこそ祈る必要があります。
「主よ、私のうちにある自己意志を取り去ってください。
反抗の心を取り除いてください」と。
私たちの側の契約――
それは先ほど話した通り、詩篇91篇の1節と2節に表されています。
そして、私たちが「主よ、あなたを人生の主として受け入れます」と言うとき、
その瞬間、神の力が解き放たれ、
詩篇91篇の3節から16節に書かれたすべての約束が働き始めるのです。
私たちのすることは大きくありません。
でも、その「小さな一歩」が先になければ、
神の側の大きな働きも始まらないのです。
では、ここからは神の側の約束を見ていきましょう。
まず第3節の冒頭部分。
「彼こそがあなたを、罠を仕掛ける者の罠から救い出される。」
――と書かれています。
どんなに頑張っても、
私たち自身の力では「罠から抜け出す」ことはできません。
私たちを救い出せるのは神だけです。
聖書はこうも言っています。
「人による救いはむなしい。」
自分の力でどうにかしようとしても、結局は空しいのです。
では、この「罠を仕掛ける者の罠」とは、いったい何を意味しているのでしょうか?
私も最初にそれを神に尋ねました。
「主よ、あなたは“罠から救い出す”とおっしゃいましたが、
その罠とは何なのですか?」と。
そして、主は私に教えてくださいました。
「罠を仕掛ける者の罠」とは――
さて、ここで言っている「罠を仕掛ける者」とは、敵――すなわちサタンのことです。
映画などでこんな場面を見たことはありませんか?
毛皮をとる罠師(トラッパー)が、寒く厳しい山奥に分け入り、
獲物を捕まえるために鋼鉄の大きな罠を仕掛ける――。
それにエサを仕込み、葉っぱで覆い隠し、
何も知らない動物がその上を踏むのをじっと待っている、そんな光景です。
主は、まさにそういう映画の場面を私に思い起こさせました。
そして気づかされたのです――
あの罠は偶然そこに置かれたわけではない、と。
罠師は非常に綿密に計算して、
「ここなら必ず獲物が通る」という場所に仕掛けています。
罠を設置する位置、角度、エサ――すべてに目的があるのです。
そして、それこそがまさに敵が私たちに対して行っていることなのです。
だからこそ、彼は「罠を仕掛ける者(トラッパー)」と呼ばれるのです。
敵の罠は偶然ではありません。
それらはあなた専用にカスタムメイドされ、
巧妙にエサが仕込まれています。
なぜなら、敵は「何が私を引っかけるか」を知っているのです。
そして同時に、「何があなたを誘惑できるか」も熟知しています。
彼は、私の心にどんな思いや恐れを投げ込めば効果的かを知っているのです。
あなたには、どんな「エサ」を使えば最も効くか――それも知っています。
しかし神はこう約束しておられます。
「もしあなたがわたしを信頼するなら、
どこに罠が隠されているかを、わたしがあなたに教えよう。」
これこそが、「いと高き方の隠れ場」に住む者が得られる霊的洞察です。
神との一致(ユニティ)の中に生きるなら、
主は敵の仕掛けた罠を前もって示し、
あなたがそれを見抜いて避けられるように導いてくださいます。
そして、詩篇91篇の3節の後半にはこうあります。
「彼はまた、滅びをもたらす疫病(pestilence)からあなたを救い出される。」
私は長い間、この“ペスティレンス(疫病)”という言葉を
「作物を荒らす害虫」だと思っていました。
つまり、バッタとか、クモダニとか、そういう虫のことだと。
けれども、言語(ヘブライ語)を調べてみて驚きました。
“ペスティレンス”とは、人を襲うものだったのです。
それは「多くの人々を襲う致命的な伝染病」、
つまり人の命を奪う疫病を意味しています。
あるいは、ある人の体にとりつき、その人を破壊しようとする死に至る病のことです。
ところが聖書は明確にこう告げています。
「神は、その人を滅ぼす目的で襲ってくる致命的な病から、あなたを救い出される。」
――これは、なんという約束でしょう。
神は、「まあ良い言葉だね」と読むために
この約束を置かれたのではありません。
神が御言葉の中に約束を与えられたのは、
私たちがそれを信じ、実行し、受け取るためです。
従順に歩み、信仰をもってその約束に立つなら、
私たちは現実に奇跡を見ることができます。
本当に信じられないような奇跡が、世界中で起こっています。
なぜなら――神の約束は、
「読むため」ではなく、「受け取って生きるため」にあるからです。
けれども、私たちクリスチャンはどうでしょう?
神の約束が何を意味しているのか、
本気で考えたことがあるでしょうか?
多くの場合、私たちは約束の言葉を読み流してしまいます。
そこに何が書かれているのか、
神が本気で何を伝えようとしているのかを、
深く考えずにページをめくってしまうのです。
でも、私はこう問いたいのです。
「神の言葉を、文字どおり信じる勇気があるか?」
神の言葉は象徴ではありません。
それは文字どおり真実です。
神が約束されたなら、それは現実なのです。
私たちがその約束を受け取り、
行動に移し、人生の中で働かせるなら、
その約束は生きて動きます。
では、こう問いましょう。
この「守りの契約」が本当に真実だとして――
それなのに、なぜある人たちはその約束を体験できないのでしょうか?
