ヨガの霊的な危険性とは?元インストラクターが語る|クンダリーニの霊について

クンダリーニヨガは危険」ということは、クリスチャンになる以前に聞いたことがありました。
だけど、どうして危険なのかはわからず、気になるテーマの一つでした。

そしてヨガについてはキリスト教徒の間でもよく知られていないことだと最近知りました。
今回は、伝統的なキリスト教の世界観から見たヨガについて語った動画を取り上げたいと思います。

アンジェラさんは元占星術師、ヨガ講師、レイキ施術者、タロットリーダーで、10年近くニューエイジに傾倒。のちにキリスト教信仰に回心しました。彼女は「ヨガはキリスト教徒が行うべきものではない」と強く伝え、その根拠を霊的・聖書的観点から語っています。

(以下よりインタビューの翻訳)

マイケル:
アンジェラってご存知の通り、元々は占星術師で、ヨガのインストラクターで、レイキの施術者で、タロットリーダーでもあったんですよね。で、彼女は10年近くニューエイジ系のスピリチュアルな世界にどっぷりと浸かっていたんです。でも最終的に、真の宗教、つまりキリスト教にたどり着いた。それは素晴らしいことだと思います。

では改めてアンジェラをお迎えしましょう。アンジェラ、今日は来てくれてありがとう。

アンジェラ:
もちろんです。また呼んでくださってありがとうございます。

マイケル:
さて、今日はね、ちょっと耳の痛い話をするつもりなんですよ。内容によっては、話し手である私に反感を抱かれる方もいらっしゃるかもしれませんが、それでも真実は真実としてお伝えしなければなりません。

ちょうど2024年の大統領選の話をしてたときにも言いましたが、今回は遠慮しません。たぶん、リスナーの中のかなりの割合の方を怒らせてしまうと思います。でも言います。

ヨガは、良くないんです。

若い白人女性とか、年配の白人女性とか、“ある程度の年齢の白人女性”はヨガが大好きですよね。でも、これは「ノー」です。断じて良くない。

さっき「聴衆を怒らせる人の話」って誰か言ってたけど、私の紹介かと思いましたよ(笑)。というのも、このヨガの話題ほど、聴衆から反発を受けるテーマはないんです。特にクリスチャンの方々からが一番強い。

アンジェラ:
ええ、本当にそうなんです。なぜそこまで反発が強いのかっていうと、正直に申し上げると、ヨガって「最も悪霊を呼び込む行為」だからなんです。

つまり、日常的にヨガをやってると、その人は完全に霊的に侵されてしまっている状態になるんです。肉体的にも、霊的にも、ヨガの本質的な意味に対して拒否反応が起きる。それは自分自身の内面だけでなく、取り憑いている霊たちの反応でもあるんです。彼らも真実を嫌がるんですよ。

だからこそ、反発が激しい。でも、クリスチャンがヨガに関わるのはやはり避けるべきです。これは私の意見というより、実際にインド政府が公式に述べていることからも分かるんですよ。


アンジェラ:
インド外務省、つまりインドの外交政策を担う政府機関が言ってるんですが、彼らはヨガをこう定義しているんです。「ヨガは、心と身体の調和を目指す、極めて繊細な科学に基づく精神的な修練である」と。そしてその実践によって、「個人の意識が宇宙の意識と合一する」とされています。

つまり、ヨガの目的は「自己実現」であり、あらゆる苦しみを乗り越えて「解脱(モークシャ)」――自由な境地――に至ることなんです。心身の健康や調和を得る、というのが、いわゆるヨガの中心的な目的とされています。

でもこれって、聖書の教えとはまったく正反対ですよね。私たちは、自由というのはイエス・キリストからしか得られないことを知っています。

ヨハネの福音書8章36節――「御子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由なのです」。
コリント人への手紙第二の3章17節――「主は御霊であり、主の御霊のあるところには自由があります」。

そしてその「主の御霊」は、ヒンドゥー教の修行の中にはおられない。これはもう、はっきりしています。

マイケル:
なるほどね。つまり、ヨガっていうのはあくまで“霊的な修練”であって、その副産物として身体的なメリットがある。逆じゃないと。

アンジェラ:
その通りです。ヨガは“身体的な動きの中に、霊的な意味が含まれている”んじゃなくて、“霊的な目的のために身体を使う”ものなんです。だからこそ、そのルーツをちゃんとたどることが大切なんです。

ヨガの起源をたどると、「シヴァ」というヒンドゥー教の神様に行き着きます。彼は「最初のヨギ(ヨガ行者)」とされていて、同時に「破壊神」――つまり破壊の神とも呼ばれています。

これって興味深いことに、聖書の中で“敵”、つまりサタンについて語られている箇所と重なるんです。ヨハネ10章10節、「盗み、殺し、滅ぼすために来る者」。

つまり、ヨガというのは“創造”ではなく、“破壊”と深く結びついている。

アンジェラ:
それだけじゃありません。ヒンドゥー教という宗教全体の世界観として、「一体性(oneness)」とか「多元性(pluralism)」っていうのが根本にあるんです。でも、このふたつってそもそも矛盾してるんですよね。それはまた別の話になるけど。

ヒンドゥー教では、「シヴァは宇宙を20億年ごとの周期で破壊する」とされていて、再創造は「ブラフマー」という創造神が行うと信じられています。

つまり、ある意味で「神が世界を滅ぼし、また創り直す」という考え方です。

マイケル:
なるほど。それってつまり、わたしたちの信じる神とはまったく正反対の存在ということですね。

アンジェラ:
そうです。そしてヨガの基盤には、この考え方がしっかりと根付いているんです。

伝説では、シヴァがヨガの知識を「七人の大聖者」に伝え、その聖者たちが人類にヨガを広めたとされています。そしてその「七人の聖者」というのは、なんと「ブラフマーの心から生まれた息子たち」――つまり「神の子たち」とされてるんですよ。

でも私たちクリスチャンは、神の子はただ一人、イエス・キリストであると知っていますよね。つまり、ヨガの物語やルーツそのものが、キリスト教に対する“アンチキリスト的な霊”に貫かれているんです。

アンジェラ:
そして、私がヨガについて語るときにいつも引用するのが、コリント第一の10章21節です。

「あなたがたは、主の杯を飲み、悪霊の杯をも飲むことはできない。主の食卓と悪霊の食卓にあずかることはできない」。

これこそが、ヨガを実践することの本質です。はっきり言いますけど、ヨガって「悪霊の杯を飲む」ことなんです。たとえそれがどんなに大げさに聞こえたとしても、これは聖書が語っている事実です。

ヨガの歴史、物語、その土台――どれをとっても、それは「異教」であり、「悪魔的」であり、「神のものではない」。

神のものではないってことは、それは“敵のもの”なんです。


マイケル:
じゃあね、ここでちょっと聞いてみたいんだけど…リベラルな女性、あるいは少し保守的な白人女性の友人たちがこう言うんですよ。

「うーん、まぁあなたの言いたいこともわかるよ。もしかしたらヨガにはなんか“霊的にヤバいもの”があるのかもしれない。でもね、私にとってはただ日曜のブランチ前に体を伸ばしてるだけなの。スピリットと繋がりたいとか、悟りたいとか、そんなつもりは全然ないの。ただちょっとリラックスして、ルルレモンのパンツ履いて、汗をかいて、その後スムージーとエッグベネディクトを食べに行くだけよ」

ってね。

で、彼女たちは続けて言うわけです。「私自身は何も信仰的な意図を持ってないのに、ただ“ストレッチしてるだけ”なら、そんなに悪いことなの?」って。

これに対して、あなたはどう答えますか?

アンジェラ:
ええ、まず最初に言いたいのは、聖書にこうあるということ――「人の心は、何よりも欺かれやすく、ひどく病んでいる」(エレミヤ17:9)。つまり、あなたの“意図”がどうあれ、それは本質的には関係ないってことなんです。

だって、福音そのものがそれを示しているでしょ?
イエス様がわたしたちのために来てくださったのは、わたしたちが“自力で”天国に行ける存在じゃないからなんです。人間って、生まれながらにして罪人なんですよ。

だから私はいつも言ってます――たとえ主観的には「良い意図」があっても、参加している行為には常に“客観的な現実”があるって。

わかりやすく言えば、こういう例があるんです。

シングルマザーがいて、生活が苦しくて家賃も払えない、子どもに食べさせるものもない。そこで彼女は「なんとか子どもを助けたい」と心から願いながら、銀行強盗に走ってしまったとします。

彼女の“主観的な意図”は良いものですよね。でも、“客観的な現実”としては、それは犯罪であり、やってはいけないことなんです。

マイケル:
うん、なるほど。“リンゴとオレンジ”の違いはあっても、例えとしてはすごく的を射てますね。

アンジェラ:
まさにその通りで、ポイントはここなんです。「主観的な意図」は、「客観的な現実」を打ち消すことはできないということ。

この点、現代の多くの人たちは大きな誤解をしています。キリスト教においても、実はこれは非常に本質的なポイントなんです。

現代社会では、「気持ち」や「意識」がすべて、っていう空気がありますよね。「私はこう感じてるから」「このバイブスが心地いいから」「自分なりのスピリチュアルな空間にいるから」みたいな。

でも聖書は、そうは教えていません。

キリスト教は“感情”でも、“哲学”でも、“詩”でもないんです。“事実”なんですよ。

マイケル:
そう、まさに!福音書って、いわば「ジャーナリズム」ですよね。小説とか詩じゃないんです。

だから、たとえば洗礼の話で言うと、洗礼の最中にふとニュースのことを思い出してたり、「終わったらチーズバーガー食べたいな」なんて考えてたとしても――

「今のわたし、正しい“心の状態”じゃなかったから、洗礼ってちゃんと有効だったのかな?」なんて気にする必要はない。

アンジェラ:
ええ。というのも、洗礼のときに“行為をしている”のは、あなたじゃないんです。聖霊なんです。

イエス様が病を癒されたときも、動いていたのは“病人”ではなく、イエス様ご自身でしたよね。

司祭が罪の赦しを与えるとき――「あなたが赦す罪は赦され、留める罪は留められる」――とある通り、実際に働いているのは神の力なんです。

私たちは悔い改める者として神に向かってはいますが、赦しの業は私たちの“外側”で行われるんです。これって、すごく解放的なことですよね。

アンジェラ:
でね、ニューエイジの実践って、本当に“自己中心”なんですよ。マイケルさんもよくわかっておられると思いますけど。

ヨガに関して言えば、まさにその典型です。ヨガは儀式的に“悟り”を目指して設計されていて、その中心には“自己の救済”があります。

つまり、ヨガの目的は「自分で自分を救うこと」。

でも、キリスト教の視点から見ると、それはどうしても“神への冒涜”にならざるを得ないんです。なぜなら、ヨガの根底にあるヒンドゥー教は、聖書の真理とは真っ向から対立する宗教だからです。


アンジェラ:
さっきマイケルさんも触れてくださったように、聖書にはローマ人への手紙10章9〜10節で、こうありますよね。
「あなたが口でイエスを主と告白し、心で神が彼を死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるのです」。

つまり、私たちは「自分で悟りを開いて救われる」んじゃなくて、「イエス・キリストによってのみ救われる」んです。だから、どれだけ「ヨガは無害に見える」としても、それを行うこと自体が神の真理に反するんです。

「ただのストレッチじゃないの?」「別に悪気があるわけじゃないのに」って言う人もいるけど、それこそが敵――サタンのやり口なんです。

マイケル:
まさに!
コリント人への手紙第二の11章14節にあるように、「サタンでさえ光の天使に変装する」とありますよね。

ヨガって、“光と愛”っていう綺麗なイメージで売り出されているじゃないですか。でも、それがまさに罠なんです。

アンジェラ:
そうなんです。いま、マインドフルネス業界って約11億ドル(約1,700億円)の規模になっているんですよ。

それって、「光と愛」という“見せかけのスピリチュアル”を使って、人々を取り込んでるからなんです。まさに2コリント11:14の通り、「サタンが光の天使のふりをする」構造ですよね。

マイケル:
そう、それすごく重要な指摘ですね。
最近では、マインドフルネスとか瞑想とか、学校でも取り入れられてるでしょ?私だって、正直ちょっと無意識にスルーしちゃうことがありますよ。

「まぁ、なんかヒッピーっぽいこと言ってるだけでしょ」くらいに。でも、それこそが危ない。

だってそれって“光”のように見せかけて、本当は違うわけですから。

で、ここからが本題なんですが、じゃあこういう話を受け入れた人たちが次に言うんです。

「うん、確かにヨガは良くないかもしれない。悪霊の影響があるなら、やらない方がいいかもね。異教の儀式を真似するのは確かに変だよね。だけど……」

「人間って、結局みんな“神に向かって”進んでるんじゃないの?」

「ある人は神を“ホースのようなもの”と捉えて、別の人は“木の幹のようなもの”と考えてるだけで、でも結局は同じ象の違う部分を触ってるだけじゃない? 方向性は違って見えても、みんな本質的には同じものを目指してるんじゃないの?」

こういう“包摂的なスピリチュアル論”って、すごく魅力的に聞こえますよね?

アンジェラ:
わかります。でも、結局はさっき話してた「主観的な意図」と「客観的な現実」の話に戻るんです。

それに、さっきマイケルさんがおっしゃったように――「キリスト教は“事実”である」。これは大前提です。

たしかに、この話って“厳しい”とか“冷たく聞こえる”かもしれません。でも、それが真実ならば、やっぱり耳が痛くても伝えなきゃいけない。

そして、もうひとつ言いたいのは――
“すべての道が神に通じているわけではない”ということです。

聖書にははっきりこう書かれています。「滅びに至る門は広く、多くの者がそこから入っていく。しかし、命に至る門は狭く、その道も細く、それを見出す者は少ない」(マタイ7:13-14)。

つまり、“狭い門”、それがキリストの道なんです。

アンジェラ:
私がこれを言うのは、「自分が正しいって証明したいから」じゃありません。

私は神の言葉が真実だと信じているし、神はその約束を必ず守られるお方です。そして、イエス様が「わたしが道であり、真理であり、命である」と言われたことも信じています。

仏陀は「私は真理を探し求める者だ」と言い、ムハンマドは「真理の預言者だ」と言いました。でもイエス様は、「わたしが真理そのものである」と言われたんです。

だから私はこう言います――
「あなたの気持ち」を傷つけたいんじゃない。
「あなたの永遠の魂」を心から気にかけているんです。

この地上でどう思われるかよりも、永遠にどうなるのか――それこそが私の関心です。

アンジェラ:
前にも自分のポッドキャストで言ったんですが、もし誰かが街角で、自分に火をつけようとしていたら――どうしますか?

「そうだね、君の真実を生きるべきだよ」「それが君にとって必要なら、やってごらん」って言いますか?

そんなこと、言わないですよね。
火のついたマッチも、ガソリンも取り上げて、全力で止めるはずです。

そしてそれこそが、福音を語るクリスチャンがしていることなんです。


マイケル:
そういえば、ペン・ジレット(※著名な無神論者)って人が15年か20年くらい前にこんなことを言ってたんですよ。

「伝道しないクリスチャンなんて、信用できない」って。

彼曰く、「もしキリスト教徒が本気で“自分が地獄に行く危険がある”と信じているなら、私がその道を進んでいるときに何も言わないって、どういうことだ? 本当にそう思ってるなら、当然伝えるべきじゃないか」と。

マイケル:
でもね、こういう話をすると、たまにこう反論する人もいるんですよ。

「なんでもかんでも“気に食わないもの”を『悪魔的だ』って言ってるだけでしょ?」って。

たとえば、「ハモド・ドラゴンさん」(※架空のリスナー名)なんかが言いそうです。

「はいはい、気に入らないものは全部“悪魔”とか“悪霊”って決めつけるんだね」って。

アンジェラ:
それって、いわゆる“サタニック・パニック(悪魔崇拝に対する過剰反応)”みたいに聞こえるかもしれませんけど、でも実際問題、人間が「好むもの」って、しばしば罪に根ざしてることが多いんです。

なぜかって言うと、私たちは「堕落した世界」に生きているから。エデンの園で蛇が人間を誘惑したように、世界そのものが、サタンの影響下にあるんです。

だから、「人間が好きなもの=罪深い=悪霊的であることもある」ってのは、ある意味で正しいんですよ。

たとえば毎晩のように泥酔するのが好きな人がいたとしますよね。それは、明らかに罪です。だから「悪魔的」とも言えます。

アンジェラ:
ただ、すべての“楽しみ”が悪魔的というわけではありません。たとえば、散歩したり、公園で風に吹かれたり、音楽を奏でたり――そういうことから純粋な喜びを得ることもできます。

でも問題は、“どこからその楽しみが生まれているか”なんですよ。

マイケル:
要するに、それが“ぶどうの木”のどこから来ているか、という話ですね。

アンジェラ:
その通りです。

「異教のぶどうの木」からは、聖なる実はならないんです。

ヨガを楽しんでいる人がいたとして、じゃあその「木」は何なのか?――ヒンドゥー教ですよね。

ならば、実っているのは“偶像礼拝の果実”なんです。つまり、それは聖書に明確に禁じられている行為です。

アンジェラ:
ヨハネ15章でイエス様はご自身を「ぶどうの木」と呼びました。そして「わたしにとどまっていなければ、その枝は枯れてしまう」と言われました。

つまり、聖なる実を結ぶのは“キリストというぶどうの木”に繋がっている枝だけ。
ヨガの木から育つ枝は、やがて切り落とされて火に投げ込まれる。そう聖書は言っています。

マイケル:
僕が最近すごく気になってるのは、言葉の使われ方なんですよ。

たとえば、こういう話をしたあとに「ヨガはもうやめよう」って決意する人がいたとします。でもその人がこんなふうに言うんです。

「でもね、やっぱり宇宙と一体になりたいんだよね」とか、「ポジティブな波動を発したい」とか、「良いものを“引き寄せたい”」とか。

そういう言葉づかいが、あまりに当たり前になってるんですよ。

マイケル:
「陰と陽が調和して…」みたいなね。僕もわざと大げさに言ってますけど、でも実際そういう話ってよく聞きますよね。

しかも保守的な人やクリスチャンの中にも、こういう“スピリチュアルな言葉”を普通に使ってしまう人が多い。

言葉って、それだけ力を持ってるんですよ。人は模倣する生き物だから、社会でよく使われてる言葉をつい真似してしまう。だけど、そうやって使っているうちに、知らず知らずのうちに自分の世界観がその言葉に染まっていくんです。

マイケル:
「宇宙に祈ってくれる?」なんて、冗談みたいに聞こえるけど、実際に言う人がいるんですよ。

でもそれって、すべての一神教――特にキリスト教――において、明確に禁じられているんです。

“宇宙に祈る”っていうのは、創造されたものに祈っているわけであって、それは偶像礼拝なんですよ。

あなたが「偶像礼拝したい」と思ってるわけじゃないのはわかってます。でも、それくらい言葉って曖昧で、滑りやすいものなんです。

アンジェラ:
まさにその通りです。私も以前、マイケルさんの番組で言いましたけど、ヨガスタジオに行くと、よく耳にするのはこういうフレーズです。

「宇宙との一体感を感じましょう」とか、「源のエネルギーにチャンネルを合わせましょう」みたいなね。

そこに“神(God)”という言葉は出てきません。少なくとも、聖書の神を指すような語りはされない。

アンジェラ:
私がニューエイジから目覚め始めていた頃、まだヨガを教えてた時期に、「クリスチャンのヨガインストラクターになろう」と思って、クラスで神の話をしてみたことがあったんです。

でも、まったく場に合わなかったんです。部屋の空気が凍りついたような、完全に場違いな感じになった。

なぜかというと、ヨガの場って、神がおられる場所じゃないんです。だから、無理に“神”を持ち込もうとしても、拒絶されるんですよ。


アンジェラ:
そして、さっきもお話しした「アンチキリスト的な霊」がヨガの背後にある、という話。あれ、ほんとにそうなんです。そしてその霊には、名前まであるんですよ。

その名もクンダリーニ・スピリット(Kundalini spirit)

ヨガの実践の中で、しばしばこの“クンダリーニ”って呼ばれる霊的エネルギーについて言及されるんですけど、これは文字通り「背骨の根元にとぐろを巻いて眠っている蛇」だとされています。

マイケル:
……蛇、ね。なるほど。

アンジェラ:
そう、蛇ですよ。もう、それを聞いただけでピンと来るでしょ?

でね、この蛇(クンダリーニ)は、ヨガのポーズ――「アーサナ」と呼ばれる一連の動き――を通じて、体の中を上へ上へと登っていくとされてるんです。

それはチャクラと呼ばれる七つのエネルギーセンターを通り抜け、最終的には頭頂に到達して、より“高次の自己”と一体になる――そう説明されています。

でもね、これって実際には何かというと、

偽りの聖霊(カウンターフィット・ホーリー・スピリット)なんですよ。

アンジェラ:
サタンって、本当に巧妙なんです。人間の“霊的な渇望”を知ってるから、それを偽のかたちで満たそうとするんです。

本来、私たちには“超自然的なもの”を求める本能がある。それは、神が私たちを「ご自身との親密な関係を持つ存在」として造られたからです。

でも多くの人は、そこに本気で時間を注ごうとはしません。
聖書を読み込んだり、祈りの生活を築いたり、教会に通って交わりを持つ――そういった本来の道を面倒くさがってしまう。

そこで、“クンダリーニ・スピリット”のようなニセモノが登場するんです。

「努力しなくても、神秘的な体験がすぐに得られるよ」
「こっちの方が、簡単で、即効性があるよ」

――そう囁いてくるんです。

アンジェラ:
ヨガって、まさにこの“偽の霊的な体験”を提供してくるんですよ。
ほんとうは時間をかけて、神との関係を築くべきなのに、
「いま、この瞬間に、“エネルギー”を感じたい」
「一体感を味わいたい」

――そういう欲求に応えてくれるように見える。

でもそれは、本物じゃない。神の霊じゃない。

マイケル:
面白いですよね。こうやって「ヨガには悪霊が関わっている」「絶対にやめた方がいい」って言うと、すぐにリベラル系のメディアはこう騒ぐんです。

「またこの“クレイジーな人たち”が始まったぞ」って。

でも実際には、私たちって“新しいこと”を言ってるわけじゃないんですよね。

アンジェラ:
ほんとにそう。

私たちが言ってることって、ただの伝統的なキリスト教の立場ですよ。何百年、何千年と受け継がれてきた信仰の教え。

旧約時代のユダヤ人たち――つまり、キリスト教が誕生する以前から――だって、「異教の儀式」や「偶像礼拝」がいかに危険か、徹底的に教えられてきた。

マイケル:
そうなんです。視野をちょっと広げて、過去数十年のポップカルチャーのバイアスを外して見てみるとね、

実は、私たちの方が“歴史的に一貫してる”んです。

むしろ、今の世の中で「普通」ってされていることの方が、よっぽど突飛で、過激で、奇妙なんですよーーーー。