今回は、霊的な解放を詳しく語った証しの動画です。前に紹介した証言から7年経ち、改めて伝えたい魔術やオカルトとそれに関連した悪霊からの解放に関する詳細となります。
霊的な解放の道のり
(動画の翻訳文:一部抜粋)
兄弟姉妹のみなさん、こんにちは。私はクリスチャンになってからもう7年になりますが、これまでずっとこの証しを語ることを控えてきました。理由は、敵(サタンや悪霊)にあまり焦点を当てたくなかったからです。しかし、最近になって主が私に、この証しの部分を分かち合うように促しておられると強く感じています。
今、心に迫っているこの“緊急感”は、神の民に向かってこの証しが届けられ、解放に関する誤解や要塞が打ち砕かれるためなのだと信じます。ですから主よ、祈ります。どうか私に語ってください。聞く人々が、あなたが望まれることを心に留め、目が開かれますように。もし私があなたに属さないことを語るなら、それを人々が忘れてしまうようにしてください。ただイエスの御名によって私を用いてください。アーメン。
これまでに何度も、この動画を撮ろうと試みましたが、そのたびに家の中で霊的なことが起こり、邪魔が入りました。詳しくは語りませんが、悪霊の顕現があり、この証しが語られるのを妨害しようとするのです。
しばらくの間、私はこう思っていました。『主がこの妨害を許しておられるのは、まだ証しを語る時ではないからかもしれない』と。けれども、先週末にカンファレンスがあり、私は主のうちに喜びに満たされ、御臨在に圧倒されました。そして改めて、心に与えられているこの“緊急感”が確かに主からのものであると分かったのです。
今こそ、その時です。私たちは“終わりの困難な時代”に生きています。夫も教えているように、その言葉は“激しく、悪霊的な時代”を意味します。今まさに、私たちは悪霊が満ちる時代にいるのです。だから私の解放(デリバランス:Deliverance)の証しは、多くのクリスチャンにとって衝撃を与えるでしょう。
きっと心をかき乱す人もいると思います。しかし私は祈ります。
この証しを通して、人々の目が開かれ、解放に関する固定観念が揺さぶられ、それが助けとなるように。
あらゆるスピリチュアルを実践した経験
簡単に言えば、私は魔術のバックグラウンドから来た者です。ご存じの方もいるかもしれませんが、私は15年…いや実際にはもっと長い間、オカルトに関わっていました。子どもの頃から、ブードゥー、ウィジャボード、魔術、黒魔術、そしてその後はニューエイジ、白魔術、ライト系のウィッチクラフトなど、すべて同じ源から出ているものに浸っていたのです。
私はさらに、シャーマニズムやアヤワスカ(幻覚性のある儀式用飲料)、そして数えきれないほど多くの“スピリチュアルな実践”に手を出しました。心を開き、“霊的に上昇”したり、“進化”したりできると思ったのです。究極的には、平安と癒しを探し求めていました。
しかし、それは私を狂気じみた“ウサギの穴”に導いていきました。考えられるあらゆるものを試しました。キリスト以外のすべての宗教に。私は『キリスト教は単純すぎる』『聖書は人を支配するために使われる道具』『あまりに明白すぎるから本物ではない』と思っていました。
「努力して到達しないと本物ではない」という誤り
『もっと複雑で、努力して到達するようなものこそ本物だ』と考え、私は誇りと偽りの知恵に満ちていました。それは“地上的で悪霊的な知恵”でした。そして、ついには完全な破綻に至りました。というのも、私は霊的に自分を無防備に開きすぎて、主からのものとそうでないものを全く見分けられなかったからです。
主を知らなかったので、“何が良いのか、何が悪いのか”すら理解できませんでした。むしろ『両方必要だ、善と悪、光と闇の二元性こそ真理だ』と信じていました。“上なるものは下なるものの如し”といった思想です。実際、その頃の神学(世界観)を示すタトゥーが今も指に刻まれています。
こうして“シャドーワーク(影の統合)”“内面探求”“ハイヤーセルフの探求”といったオカルトやニューエイジの実践に深くのめり込むほど、私はますます壊れていきました。自分の内側を探れば探るほど、闇と絶望しか見つからなかったのです。
自分の内奥へと進めば進むほど、底なしの穴――虚無と絶望の空洞――があるのを見ました。外側には“偽りの平安”があるように見えても、ニューエイジの瞑想や“ニルヴァーナ到達”の試みには、実際には自己の解離(ディソシエーション)が多く含まれています。
やがて私はこの道にあまりにも深く入り込みすぎて、ついには“悪魔的な霊のバプテスマ”を受けたとしか思えない体験をしました。私は自分を完全に開きすぎて、肉体から抜け出し、“生命の根源エネルギー”に入り込み、すべてのものとつながり、『私は一つだ、私は神だ』と感じたのです。
偽りの悟り、覚醒の体験
それは自分の意思ではなく、強制的に起こった体験でした。それは“悟り”や“覚醒”のように思えましたが、さらに異様なものでした。その時私は、ニルヴァーナに到達したかのような錯覚を抱きました。強烈な“偽りの平安”を覚えたのは、自分のアイデンティティから完全に切り離され、“空っぽの器”となってしまったからでした。
私はアイデンティティを失い、ただ“漂う空っぽの器”のようになっていました。後に主を知って気づいたのですが、私はまるで“掃き清められた空の器”のようで、悪霊が自由に出入りし、利用することのできる存在になっていたのです。
私は徐々に“分裂した人間”になっていきました。いくつもの人格に裂け始めたのです。常に自殺の映像が頭に浮かぶようになり、状況はどんどん激しさを増しました。私は完全に“悪霊に取り憑かれて”いたのです。
決定的になったのは、アヤワスカを体験した後でした。それが“棺に打ち込まれる最後の釘”のようになり、私は『霊界よ、私を好きにしてくれ』と自ら差し出してしまったのです。
そのとき、私は完全に壊れ始め、自分の人格が裂け始めました。一方には“柔らかい側面”があり、もう一方には“壊れ果て絶望した側面”がありました。両方を一致させることはできず、人格は二つに分かれていきました。
しかし実際には二つではなく、もっと多くの悪霊的な作用が同時に働いていました。私の中の人格は複数に分かれていったのです。
だからこそ、私は今日ここに立っています。ありがとう。ありがとう。ありがとう…。何度も“ありがとう”としか言えません。本当に感謝します。ここにいてくれてありがとう。時間を割いて聞いてくれてありがとう。
私は“闇の側面”にあまりにも深く入り込みすぎた話をしたくはありません。でも、どうしても語らなければならないのです。特にクリスチャンと牧師たちのために。なぜかを説明させてください。
私は完全に自分の限界に達し、自殺願望に取り憑かれていました。あらゆる場所で答えと真理を探してきたのに見つからず、絶望の中で“宇宙”に向かって叫んだのです。
しかもそのとき、私の周囲には悪霊の“網”が張り巡らされていました。たとえば、宇宙に何かを語りかけると“応答”が返ってくる。そして再び語りかけると、別の人を通して“返事”がある…。そんな“引き寄せ”のような現象が常に起こっていたのです。
それは、聖霊による“御言葉の確証”の偽物のようなものでした。ただしそれは“サタンの王国版”。そこに深く関わってしまうと、“宇宙に語りかければ答えが返ってくる=自分は正しい道にいる”という感覚を与えられるのです。しかしそれは、さらに深い穴へと引きずり込むための“悪霊の偽りの確証”でした。
私の周りではこうした“魔法のようなこと”が常に起こっていました。たとえば、何かを口にするとそれが現実に起こる。旅をすれば夢で見た通りの人物に出会う。そうした出来事が次々にありました。けれども、私の内側は死んでいました。完全に死んでいたのです。何かが欠けている。そのことを深く知っていました。
そして私は絶望の中で泣き叫びました。自殺の映像や思いがフラッシュのように頭に浮かんでは消える。その苦しみから逃れるには、笑い飛ばして“冗談みたいなものだ”と思い込むしかなかったのです。今振り返ると、それは“悪霊が私を自殺に鈍感にさせようとしていた”としか言えません。
だから私は叫びました――“神よ!”(その時はまだ“宇宙”に呼びかけていると思っていました)。『私はありとあらゆる道を試しました。探し求めている“内なる平安”、自分がここにいる理由、その答えを見つけようとしてきました。けれども、どこを探しても真理はなく、空虚な穴があるだけです。どうか、真実なる方よ、あなたが誰であっても、姿を現してください!』と。
『どうか、道を示してください。あなたの道を。あなたが誰であれ、どんな存在であれ、本当の真理である方に語りかけています。どうか示してください。私はもう探し疲れました。どこを見ても真理を見いだせません。いくら“確証”を受け取って、すべてが揃っているように見えても、私の内側は死んでいます。私はそれを知っていました。』
――その後の話を短くまとめるなら、私はヨーロッパを旅し、洞窟に住んだりもしました。私の証しはとても突飛で、“チャンネルを追ってきた人なら知っている”ほど波乱万丈です。その中で、私はイスラム教の方向にも引き寄せられました。反抗心から、『イエスは十字架にかかっていない』と繰り返し言われたとき、こう思ったのです。
『でも、それこそがキリスト教の中心じゃないの? じゃあ両方をつなげてみようか。みんなが“正しい”状態になればいいのに。みんな救われればいいのに。』――当時は“救われる”という言葉すら知りませんでした。ただ、全員が正しい状態になることを願ったのです。けれども、それはうまく一致しませんでした。
実際、キリスト教とイスラムは互いに“正反対”であることに気づきました。すべては“十字架上のイエス”にかかっていたのです。そこで私はハッと気づきました――『私はもう完全に行き詰まっている。これ以上探すことも、努力することも無駄だ。私はずっと“平安”や“充足”や“人生の意味”を得ようと懸命に努力してきたけれど、すべて空回りだった』と。
努力して到達はできないものだと知る
私は自分を清めようと、働き、働き、働き続けていました。しかしある瞬間、ひざまずいて悟ったのです――『なぜ私は真理を見いだせず、平安を得られなかったのか?』その理由は明らかでした。それは、“努力して到達できるものではない”からです。
それは不可能なのです。ただ神にしかできないこと。だからこそ神は、私のために御子イエスとして人となり、十字架にかかり、私の代わりに死んでくださった。そうして私は清められ、再び神との関係を持つことができるようになったのです。
その真理に気づいたとき、すべてが腑に落ちました。私は疲れ果て、燃え尽き、内側が死んでいた――それは、自分の力で“神だけができること”を成し遂げようとしていたからです。しかし、神はすでにそれをしてくださっていた!ハレルヤ!
私は啓示に圧倒されました。“古臭い、人を支配するための本”だと軽んじていた聖書。人生でずっと目の前にありながら無視していた“明白すぎる宗教”。それが、ずっと真理を示していたのです。
「人を支配するための本」だと思い込んでいた聖書
そしてその瞬間、兄弟姉妹よ、奇跡が起こりました。多くの人も経験したことがあると思いますが、“覆い”が取り去られたのです。目の前にヴェールがはがれ落ちるようにして、私は“生ける神”と出会ったのです。私は確信しました――神を知った、神に知られている、神が私に『こんにちは』と声をかけてくださったのだと。
イエス・キリストを通して天の父と出会い、聖霊を受け取りました。そのときはまだそれが何か理解できていませんでしたが、新しい視点、新しい目を与えられて圧倒されました。そして悟ったのです――私は神に逆らい、ニューエイジや“死へ導く悪魔的な知恵”を人々に伝えてしまっていたのだと。
ーーーー
続きは動画でご覧ください。